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漢口空襲 (1939年10月) : ミニ英和和英辞書
漢口空襲 (1939年10月)[かんこうくうしゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [かん]
 (suf) man (negative nuance)
: [くち]
 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening 
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
空襲 : [くうしゅう]
  1. (n,vs) air-raid 
: [ねん, とし]
  1. (n-adv,n) year 2. age 
: [つき]
  1. (n-t) moon 2. month 

漢口空襲 (1939年10月) : ウィキペディア日本語版
漢口空襲 (1939年10月)[かんこうくうしゅう]

1939年10月の漢口空襲(かんこうくうしゅう)は、日中戦争前期に、中華民国ソビエト連邦の連合航空隊が、日本占領下の漢口(現武漢市の一部)に対して行った航空攻撃である。中ソ連合航空隊は3回に渡って漢口の日本軍航空基地を奇襲し、うち2回の戦闘で日本軍の航空機多数を破壊して塚原二四三少将らを死傷させた。日本軍航空隊は日中戦争開始以来初めての大きな損害を被った。
== 背景 ==

1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると日本軍は優勢に戦いを進め、同年12月には中華民国の首都であった南京を占領、翌1938年(昭和13年)10月には臨時首都の漢口も占領した(武漢作戦)。しかし、中国側は降伏せず、四川省重慶に首都を移して抗戦を続けた。
武漢作戦の終結後、日本海軍は中国戦線に派遣中の海軍航空隊の撤収を進め、1939年(昭和14年)初頭には派遣部隊の規模はピーク時の4割にあたる132機に減少していた。漢口などの華中方面には、第二連合航空隊(第十二航空隊第十三航空隊、司令官:桑原虎雄少将)と第一根拠地隊江上飛行機隊(8機)が残る程度になっていた〔防衛研修所(1975年)、108-109頁。〕。しかし、同年5月から重慶爆撃を本格的に開始することになると、4月24日に第十四航空隊が漢口に進出したのを皮切りに、6月には高雄海軍航空隊、9月5日には第一連合航空隊(木更津海軍航空隊鹿屋海軍航空隊、司令官:塚原二四三少将)と、九六式陸上攻撃機を主力とする航空部隊を続々と漢口に進出させた〔。日本陸軍も、1939年9月下旬に飛行第60戦隊(戦隊長:田中友道大佐)を漢口に進出させて、海軍部隊との共同訓練を開始した〔防衛研修所(1974年)、163頁。〕。日本軍占領下の漢口では、漢口競馬場を整地して「W基地」と呼称する大飛行場が整備されており、一連空・二連空・陸軍機合わせて200機が展開可能な態勢であった〔防衛研修所(1975年)、111頁。〕。
一方、中華民国空軍及び義勇兵名目で協力中のソ連空軍志願隊は、漢口陥落後、漢口や衡陽の基地から四川省成都や梁山(現梁平県)、芷江などに撤退していた。撤退時の兵力は、ソ連空軍志願隊が戦闘機のI-152I-16合計約50機とSB爆撃機約20機にすぎなかった〔中山(2007年)、342頁。〕。四川省の山中の基地は日本側拠点の漢口から遠く、重慶や成都の防空任務には適していたが、反撃を行うには不向きだった。そこで、中ソ連合軍は、華南の柳州桂州に必要に応じて航空隊を前進させて反撃を試みていた。中でもソ連空軍志願隊のSB爆撃機は、日本側の拠点に変わった漢口飛行場に対して、以下に述べる2回を含めて3回にわたって奇襲攻撃を行った〔中山(2007年)、354-355頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「漢口空襲 (1939年10月)」の詳細全文を読む




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